代表ブログ

わせだマンのよりみち日記

2021.04.21

体験者の「空襲体験画」が導く平和 ~ピースおおさか

#現地訪問

今回の訪問の目的は、音声ガイドアプリの導入のための視察。展示室の様子を確認させていただいたのですが、ある展示の前で釘付けに。そのまま職員の方に案内していただくことになりました。

衝撃を受けたのは、大阪空襲の体験画です。空襲を体験された方々による当時の様子を描いた絵画がズラリと並んでいるのですが、それぞれ作者はプロの画家でも、絵画の技法を学んだ美大生でもありません。ただ、自分の体験を伝えるべく、強い想いで筆をとられた一般の被災者の方々なのです。

黒く焦げたご遺体を荷台に積んだトラック、片側のふちに流されたご遺体が折り重なる池、火に包まれた家々と人々。作品をひと目見て絶句し、足がすくむほどに動揺してしまうのですから、実際に体験された方々のお気持ちを考えると…。ご自身の脳内に焼き付いた映像を絵に表現するという作業にどれほどの想いを抱えたのか、想像することすらできません。

「大阪の地下鉄は空襲の時でも走っていた、という話があるんですよ」と、案内してくださった職員の方が1枚の絵を示します。3枚目の写真、一番右に写っている作品では、確かに地下鉄の駅に避難した人々が描かれています。でも、「…という話がある」という説明からも分かるように、公的な記録が一切ないそうです。戦時中の地下鉄は軍事輸送に使われることも多く機密に関わるため、公式には避難には使われていないことになっているのだとか。もしも描かれた通りだったのであれば、駅員や運転士が現場判断で走らせたということなのでしょうか。

東日本大震災では、大阪市営バスの運転手たちが被災地にバスで物資を運んだと聞きます。バスの使用許可を得るには時間がかかりますので、現場から相談を受けた上司は「ほな、私も一緒に怒られますわ」とばかりに、文字通り見切り発車で出発したとか。本当に危機を迎えた時には、私たちは自然に助け合うのですね。凄惨を極めた絵の中に、ひと筋の光明、人の心を見たような気分でした。

プロジェクションマッピング、焼夷弾の模型。空襲に関する展示は、まだまだ続きます。

防空壕の再現模型もありました。私も、身を屈めて防空壕の中に。すると、轟音の中とともに人々の声が聞こえて、入り口付近が赤く光ります。防空壕の外に焼夷弾が降り注いでいる様子の再現です。先ほどの空襲体験画が脳裏に強く残っている私は、もう言葉が出ません。職員の方の話では、やっとの思いで逃げ込んだ防空壕も、必ずしも安全とは言えなかったようです。防空壕の中が火や煙に包まれ、そこで亡くなる方も多かったとか。

ショックを受けている私を見かねてか、職員の方は私を中庭に案内してくださいました。ここは、大阪空襲で亡くなられた方々を追悼し、平和を祈念する「刻(とき)の庭」。戦後60年にあたる2005年に作られたそうです。

中央のモニュメントの中には、亡くなられた方々のお名前を浮き彫りにした銘板が置かれています。空襲で辛い最期を迎えられた方の名を「彫る」のは忍びないという思いから、浮き彫りという手法がとられたのだとか。数字だけで規模を伝えられるよりも実感が湧いてきます。

この日は高校生の団体見学と重なりましたが、談笑の声は聞こえませんでした。誰もが一様に展示に見入り、熱心にメモを取っていました。多感な世代の彼らは、この展示の数々にさまざまな考えを巡らせたに違いありません。

きっと意を決し、胸をえぐられるような想いでお描きになったのであろう「空襲体験画」の数々。絵画技術を超越した「伝えるチカラ」は、圧倒的な迫力で胸に迫ります。ミュージアムの役割はいろいろありますが、このミュージアムが継承するのは「平和への想い」です。人間の想いを次代に伝えるミュージアムの業務をサポートする役割について、はっきりと再確認する見学となりました。


取材協力 ピースおおさか 公益財団法人大阪国際平和センター  田中優生様

http://www.peace-osaka.or.jp/