2021.05.19
郷土史・社史のルーツ!? 超名作「地理志」の誕生秘話 ~都城島津邸
#現地訪問島津家と言えば、江戸時代に雄藩として名をはせた薩摩藩の藩主。反射的に鹿児島県を思い浮かべる方も多いかと思いますが、発祥は宮崎県の都城(みやこのじょう)なのだそうですね。
まずはざっくりと、おさらいから。平安時代、この地には「島津荘(しまづのしょう)」と呼ばれる大規模な荘園がありました。鎌倉時代に入ると、源頼朝がこの荘園の管理人を任命します。この惟宗(これむね)忠久という人物こそ、誰あろう、のちの島津忠久その人。島津氏はやがて鹿児島県の出水に拠点を移したと伝えられますが、室町時代に分家の北郷(ほんごう)氏が都城に領主として移住。そして江戸時代、本家の命により島津を名乗るようになり、都城島津家として大いに栄えることになります。
そんなわけで、今回お邪魔したのはこちら。都城島津家が明治12年(1879年)以降に住んだ邸宅で、現在は実に約5千坪にも及ぶという敷地に国登録有形文化財をはじめ島津家ゆかりの貴重な史料がズラリ。歴史ファン垂涎のスポットです。
この日は、館長と学芸員へのご挨拶がメイン。オフィスは本宅内にあるのですが、こちらは昭和48年、昭和天皇・皇后両陛下のご宿泊にも使われた特別な場所。このエピソード、どういうわけか訪問前の学習で見落としていたようで、後で知って「何か失礼な行動は取らなかったか」と冷や汗をかく思いでした…。
さて、この日も時間に追われていたので、最後に、このところの定番となっているこの質問を。「一番おすすめの展示はどれですか」とお訊ねすると、館長は学芸員と顔を見合わせて、『庄内地理志』を紹介してくださいました。庄内とは、「島津の庄の内」を意味する江戸時代の都城地域の呼称で、志は中国で「歴史」を示す言葉だそうです。徳川吉宗が地志編纂の重要性を説き、松平定信が各地の大名に内命を下して作られたというこの時代の地志としては、恐らく全国でも類を見ない規模なのでは…と館長。さっそく学芸員がお持ちくださった刊行物を広げて、駆け足でご解説くださいました。
庄内地理志には、都城の地理、歴史、気候風土から、役人の変遷までが克明に記されています。また、島津家の由緒に関する文書や神社の棟札など公的な記録のほか、善行を積んだ庶民のエピソードまで収録しているとのこと。この種の記録は主に藩士たちの仕事なのですが、こちらでは領民たちが総出で編纂に携わったのだとか。武士が農民の家に寝泊まりし、土地の古老を集めて直接ヒアリングを行ったというのですから、文書で依頼するよりもはるかに血の通ったスタイルですよね。藩士の多くが城下町に集中して住まわず、日頃から農民と付き合いがあったという独特の文化が、このクオリティを実現したわけです。
冊子をめくりながら、にこやかにお話しくださるお二方。説明を聞いて俄然興味がわきましたので、帰り際、都城島津邸伝承館に展示されている実物の見学に。
びっしり文字が詰まった古文書的なルックスを想像していたのですが、見やすいイラストマップまで掲載された何ともモダンな(?)スタイル。うかがった話を思い出しながら実物を見ていると、領民たちが見守る中、武士と古老が額を寄せ合って内容を相談するシーンが目に浮かびます。考えてみれば、周知を徹底し、後世へと伝承することが大切な目的だったはずですから、この分かりやすい記述も当然と言えば当然なのかもしれません。
現代で言えば郷土史編纂事業、市史や町史そのもの。そう言えば、百周年を迎える企業や大学などが増えていることから、最近は弊社にもよく大学史や社史、企業アーカイブのご相談が舞い込みます。創業者・創設者の「イズム」継承や人材育成の現場には不可欠ですし、対外的な広報宣伝にも役立ちますので、アーカイブの重要性は今後さらに増していくことでしょう。
士気と結束を高めるには、まず歴史を知り、先達の想いに触れることから。それは、江戸時代の治世も、現代の地方自治や企業経営でも同じなのかもしれません。
いま自分が関わっている文化資源のデジタルアーカイブは、江戸中期の時点でその重要性が説かれ、令和の現在まで連綿と続く「記録」の仕事なのだ…。歴史的名作が発散するオーラで身を引き締め直しつつ、国登録有形文化財である御門に一礼し、次の訪問先へと向かいました。
【取材協力】
都城島津邸
館長 山下真一様
学芸員 有満さゆり様