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わせだマンのよりみち日記

2013.05.19

博物館データベースは現代の道しるべ

出張先の鹿児島から戻って、何気なくインターネットで鹿児島関連の情報を見ていると、あるブログで鹿児島の平田靱負という偉人が紹介されていました。

洪水被害が続いていた長良川流域の治水工事に、薩摩藩が駆り出されることになったのですが、これは幕府が薩摩藩を疲弊させることをあからさまに狙ったものであり、薩摩藩とは関係のない岐阜の人たちを助けるために、藩の財政が危機に陥るようなことには、多くの藩士が猛反対したそうです。
当時薩摩藩の老中だった平田靱負は、
「縁もゆかりもなく、遠い美濃の人々を水害の苦しみから救済する義務はないかもしれないが、美濃も薩摩も同じ日本である。幕府の無理難題と思えば腹が立つが、同胞の難儀を救うのは人間の本分である。耐え難きを耐えて、この難工事を成し遂げるなら、御家安泰の基になるばかりでなく、薩摩武士の名誉を高めて、その名を末永く後世に残すことができるのではないか」
と藩士たちを説得し、工事を敢行するのです。

工事は難航を極める中、幕府は工事に携わる藩士たちに贅沢を禁じ、最低限の一汁一菜で過酷な労働を強いました。多くの若い藩士が、抗議の割腹自殺を図り、乏しい食事で体力が落ちているところに赤痢が流行し、命を落としました。この工事期間中に、薩摩にいた26才の若き藩主、島津重年は、藩士達の美濃での苦境を伝え聞き、
「自分の藩士達が必死になって遠く美濃の地で命がけで働いているのに、自分は安穏と郷里で仕事をしている。心だけでも彼らと共にありたい。財政も逼迫しているのに、自分だけ殿様の食事などできぬ」
と、彼らが帰ってくるまで、彼らと同じ一汁一菜の食事を続けていたそうです。

――世の中、理不尽なことだらけ。それは今も昔も同じだけれど、昔の日本人は理不尽さの中でも、「世のため人のため」を優先し、自分さえよければ…という考え方は今よりずっと少なかったのではないか。このブログの主はこう結んでいますが、私も、昔の日本人は立派だったんだな、と思います。

ウズベキスタンの首都・タシケントに建つナヴォイ劇場において過酷な建設労働に従事させられた日本人の話は御存じでしょうか。彼らは捕虜となり、腐った食事しか与えられずに1割以上の仲間が亡くなるような環境でも、一切手抜きをせず完璧な建築をやり通し、その建築は1966年の大地震で町中が壊滅する中でも無傷のまま残ったとのことです。ウズベキスタンでは、今も日本人は尊敬のまなざしで見られているとか。

こういう話を聞くにつけ、私は背筋が伸びる思いを感じます。いろいろ大変なことが多い毎日でも、先人に恥じぬよう、やれることを精いっぱいやらなければ、という気になりますよね。きっと各地の博物館には、教科書に載らない、私たちが知らない偉大な先人の記録が残っているのではないでしょうか。博物館のデータベースは、混迷の時代に生きる私たちに、先人が残してくれた道しるべなのかもしれません。

翻って、平田靱負。ちゃんと「かごしまデジタルミュージアム」にも出ていますね。
http://www.digital-museum.jp/index.php?app=shiryo&mode=detail&list_id=307816&data_id=10000310